千尋に届く波の音・第弐拾壱話
その色が尋常ではなく、憔悴しているようにも見えたからだ。鷲頭はそんな暢生をみて、いつまでも仲違いしてしまったという気持ちを抱いている場合ではないと、不器用な性格を押して、言葉を交わす口実を掴みとって、漸く暢生と言葉を交わした。
薄々だが、鷲頭は暢生に何があったのかを察していた。友人たちのなかで誰よりも心配していたのだから、当然とも言える。何も訊かずに、以前と変わらず黙って傍に居てくれる鷲頭を、ありがたいと暢生はつくづく思った。
そうしているうちに、尉官に任ぜられている若者たちへ、正式な辞令が出ることが決まった。皐月晴れが終わらぬうちに、と誰かが音頭を取ったらしく、水交社へ集って食事会を催す知らせが、暢生のもとにも回覧されてきた。
どのような顔をして、城内や那智の前に立てばいいのかわからなかった。けれども、逃げる訳にはいかない。殺しきれなかった己の欲の所為で、結果的にふたりの上官を振り回してしまったのだから。
その日がやってきて、夕刻には芝の水交社へ連れだった士官たちが集まってくる。いつもは静かな水交社も、天長節の宴が催された艦内のように賑わっている。大掛かりだった軍事部の設立が無事に終わり、また海へ出てゆけることを喜んでいる。
その喜色のなかで、蒼褪めたような顔色でいる暢生を気遣って、気心の知れた友人だけで一部屋を借り、そこで食事や歓談を交わすことにした。
食事もすすまず、微笑さえ浮かべなかった暢生だったが、ふと意を決したように顔をあげた。城内と那智も、ここへ来ている筈である。きちんとふたりの前へ出て行かねば、逃げているのと同じだと思ったからだ。
「一寸、席を外すよ」
震えそうな声を抑えてそれだけを言うと、暢生はひとりで部屋を出て行った。左程探さなくとも、あのふたりである。居るか居ないか、すぐにわかるだろう。そうして、まずは同じ階の部屋を探そうと廊下を歩き出した。
―その頃。
ちょうど暢生たちが居る部屋の上階に、城内と那智はふたりで対峙していた。さり気なく誘いに来た城内を見て、那智はもう眉を顰めている。一瞬で異変を嗅ぎ取る那智の勘の冴えは、特にこの時鋭く働いていた。
「話ってなァ、何だィ」
腕を組み、やや怒らせた眼でじろりと城内を睨めつけつつ、訊く。傍からみるとこのふたりは水と油、犬猿の仲のように認識されているが、それは違う。ひと言たりとも口には出さないが、互いに認め合う親友なのである。
だから回りくどい言い回しなどは、必要がない。
「ウン、新見くんのことだよ。…那智くん、きみの気持ちはこの際置いておくとしてだ。きみはこれまで、あの子の気持ちを真剣に酌んだことはあるか?」
「…何の話だよ?」
「きみが突き放したあと、あの子がきみについて心の奥で何を考えていたか、ということだ。どうなんだ?…あるのか、ないのか?」
いつもの、人を食ったような物言いとは明らかに違う口調だった。このような剣幕で城内に詰問される謂れはないと、那智は鼻白みつつ聞いている。
「…ねェな。おい、そもそもあいつァ、おいらとの交際についちゃ早々に諦めたンだぜ?あいつに欲が無ェこたァ、お前ェさんだって良ぅく知ってるだろ。一体何が言いてえンだィ」
「那智、いいか良く聴け。新見くんはな…きみに想いを寄せているんだ。ぼくはあの子に手をつけた。遊びじゃない、一生大事にするという覚悟で抱いたよ。その時に…あの子は、自分の気持ちに気付いた。ことの後に、ぼくがきみの名を口に乗せたとき、途方に暮れたような表情をしたんだ」
「おい…城内、何の冗談―ッ」
つねに笑んでいるような温顔が、いまは殆ど何の表情も浮かべていない。刺すような剣呑な光を湛えた両の眸が、那智を射ている。
対峙していた距離を詰めて、城内は那智へ掴みかかり、すぐ傍のテーブルへ上体をねじ伏せ、腕を固めた。それで叩きかけた軽口を黙らせる。那智がこの期に及んで、はぐらかそうとしているのは明らかだった。
「何しゃァがんでェ!」
「置いておくと言ったきみの気持ちだが、今ぼくの前で認めろ。認めたらこの腕は離してやる。確り新見くんを守るのは那智、きみなんだぞ」
「へッ、まさかとは思うけどよ…、手ェつけて飽きたってェ類なんじゃァ―」
あくまでも逃げる姿勢を取り、言いかけた言葉が終わらぬうちに、城内は那智を床へ投げ飛ばして殴りかかった。この時、歓談で賑わう水交社のなかで、凄まじい物音と怒号があがった。
暢生はすぐにそれと察知して、栗鼠のような素早さで階段を駆け上がり、廊下を走った。開け放たれた扉は一つしかなく、城内と那智が組みつき、廊下へ転び出るようにして姿をみせる。
殴り合っているというのではなく、城内が那智を叩きのめしているという光景だった。それを眼にして、暢生は足を竦ませた。体格の良い城内に比べれば、那智も華奢にみえる。両手で那智の胸倉を掴んで引き起こし、扉へ叩きつけたときなど、重さをまるで感じさせない動作だった。
「おい―、どうしたっていうんだ?」
「城内と那智じゃないか。何だ、酔って喧嘩かァ?」
「そこそこにしておけよ」
階下から音を聞きつけてやってきた士官たちは、立ち竦んでいる暢生の後ろから、ほろ酔いのなか口々に言うだけ言って、また降りてゆく。この異様さに全く気付いていない。暢生の他には鷲頭、浅田といった極少数にしか分からぬ事態である。
当然、城内の耳にそのような忠告が届くはずもない。扉を蹴り開けて、那智を突き飛ばすようにして放り込む。何かが倒れるような音がして、廊下から二人の姿が消え、暢生は漸く我に返る。
それと同時に躊躇いも無く部屋へ飛び込んだ。床のうえで伸びてぐったりしている那智の姿しか、視野に認めなかった。扉のすぐ前で仁王立ちになっている城内の傍をすり抜け、那智の傍へ膝をつく。
左の額口を切ったらしく、そこから頬にかけて血に染まっているのを見たとき、からだが震えそうになった。暢生はせめて盾になるようにと城内へ背を向け、那智をゆっくりと抱き起こした。
「…ごめんなさい…」
堰を切ったようにして零れた暢生の涙が、那智の顔に落ちた。切った額や頬の傷に染みて痛かったが、その痛みは何故か那智を安堵させた。
「馬ァ鹿…泣くンじゃねェよ。謝ンのは、おいらだィ」
潰れたような擦れたような声で、那智は言った。大風のような城内の怒りに、ただ翻弄されるに任せながら、那智はつくづく己を省みていた。
「全くよゥ、結局は手前ェが、いっとう臆病者って事じゃねェか。情けなくて笑っちまうぜ…」
部屋の外に、駆けつけた鷲頭たちが居た。嵐でも過ぎ去ったような室内と、三人の有様を見て暫し呆然としていたが、やがて吉永少監を呼んでこいとか、その前に何か手当てできる物を探してこいとか、そういった声をあげて廊下を慌しく去っていく。
「新見くん」
普段と変わらぬ柔らかい声音だったが、暢生は先刻衝撃を受けた光景を思い返して身を竦めた。振り向けずにいる暢生へ手を伸ばし、そっと髪に触れて撫でたあと、城内はもう一度名を呼んだ。
「新見くん、これから…那智くんを、頼むよ」
それだけを言って、ふらりとそこから姿を消した。
| 千尋に届く波の音 | 06:00 | comments:4 | trackbacks:0 | TOP↑
男の引き際
城内…ッッ(ぐっっ!!)
いろいろなところで滾りました。新見を思うが故の男二人、想うが故に身を引いた男と手を付けた男。だからこそそれぞれに本当の気持ちに気が付くわけですね!痺れる!
自分発端に殴りあう上官を見ている新見姫がいじらしくて大好きです。俺の嫁に来い。
| kanayano | 2011/03/18 14:03 | URL |