大日本帝國軍の愛と友情の日々

逓信省の検閲済でありますが、男色趣味満載ですので、苦手な方は華麗なターンでご退却下さい!所謂BL小説サイトです。右側に注意書きがございます。必ずご一読ください

| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


web拍手 by FC2

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

  変わらぬ青空のしたで・第漆拾壱話

 和胤が日本をはなれてひと月が経ち、八月の暑い夏の盛りに、惟之は周囲に背を押されるかたちで、渋々ながら中将へ昇進した。同時に男爵にもなったが、うわべだけでない、私的に親交のあるひとたちから宴席で祝われてさえ、当の本人はにこりともしなかった。

 ありがとう、のひとことも言わず、ぶすッとした顔のまま、宴席をあとにした翌日。新たに受けた辞令とともに、中将の真新しい礼装へ袖を通したすがたで、早朝に自邸を出た。

 慣例に則り宮城へ伺候し、歴々のお偉方へ挨拶を済ませたころには、夕刻をまわっていた。うんざりしきって鬱々とした気分を晴らしたくなり、帰宅まえに参謀本部へ正装のまま、ぶらりと立ち寄った。

 既に第一局は恩田の手に託してあり、もうこの参謀本部での居場所はなくなったのだ。十日の猶予を局長の引継ぎに充てられていたが、そんなものは恩田とツーツーの間柄であるから、とっくに済ませてあり、明後日にはさっさと、広島の第五師団長へ着任してしまうつもりでいる。

 「郷里が近いけぇ、いっそ適当な時期に師団長を退いたら退官するかのう。帝都に戻るのも億劫じゃ、市ヶ谷の家は引き払って隠棲してやるか」

 と、局長室へ通されるなり、かれこれ六年は過ごした、見慣れた部屋の長椅子へ腰を落ち着け、前立てのついた正帽をぽい、と無造作に脇へ放った。

 「第十四師団と交替して、鉄嶺の守備警護に就きたいちゅうとるのに、尾木の爺ィが諾きやせんのだ。おれが満州の前線に立っちょれば、腑抜け議員連中のあたまでも解かるように、逐一電文で報せてやるのに。姫路の第十師団に任せるとかぬかしおって」

 このまま煮え切らん状況に置かれるのなら、おれァ、本気で引退するぞ。と、ぼやく惟之の丸いあたまを、恩田はぴしゃりと叩いた。いまはとっくに終業時刻をまわっているから、遠慮がない。

 「馬鹿なことをたれるな、広島へゆけばせることは山のようにある。それに、海軍さんと綿密な連携を持つために、呉鎮に近い鯉へゆくんじゃろうが。しがらみに囚われんで動ける、おぬしを見込んでの異動なんじゃ。しっかりしんさい」

 「へっ、そげなことはの、おぬしに言われんでも心得ちょるわい。向こうに帰ったら、しし鍋でもつついて日がなごろごろして過ごしたいちゅうのも、本音じゃ」

 いまの惟之の副官は尾木の手回しか、やはり同じ旧長州出身の中佐で、名は藤井という。いかにも鋭利そうな明晰さはあるものの、泰然としては居らず、みていてどこか危なっかしい。

 藤井について、愚痴や揶揄も含めて、その仕事ぶりに対する批判になりかねないことは一切、誰にも言ったことはないが、恩田の前でつるりと、こんなかたちで本音が出てしまった。和胤が副官だったころとちがって、安心していられない。

 あえて乱暴な言い方をすれば、多少のことを丸投げにしてしまうと、藤井はそれだけで行き詰まってしまうらしい。性格にも起因するのだろうが、和胤はその点堂々と構えていたから、ときにはそれが面白くて、わざと投げて任せていたことすらあったくらいだ。

 惟之も和胤も軍務に関しては、徹底して現実主義であったから、ぴったりと背が合っていてこそ出来る芸当だったのだ。同じ仕事ぶりを、藤井にも求めるのは酷というもので、それは惟之も重々承知している。

 「惟之、藤井も充分切れ者なんじゃけぇ、贅沢言いなさんな。それに、山口には何ぞ、一丈は文をしたためるとか言うちょったろう。まだ出しちょらんのか」

 「まだじゃ、あと半年は出さん。あいつから報告の電文なり書状が届いてから、したためるつもりじゃ」

 ―この、ひねくれ者が―

 内心で呆れたが、惟之の横顔に刹那、憂いが浮くのをみて、すこし気の毒におもった。近い親類であった姪と甥も、学業のために惟之の傍から離れてしまったし、せっかく刎頸の交わりとなった弟同然の和胤でさえ、独逸へ駐在武官にとられてしまった。

 「おい、毅三郎。なんちゅう顔で見ようるんじゃ、おれァもう、あの頃とは違うぞ。そう心配せるな」

 うす暗くなってきた部屋のなか、惟之は華奢な胸を反らせて磊落に笑った。正帽をとりあげて、席をたつと恩田へ背を向けて手をあげた。

 「さて、道化役は仕舞いじゃ。早う帰ってこげな滑稽なものを脱いで、夜は新橋へゆくぞ。のう毅三郎、一緒にどうじゃ」

 「いや、おぬしだけで行ってこい。帝都を離れるんじゃけぇ、気がねなく息抜きせるのも大切じゃ。藤井にはおれが適当に理由をつけておく」

 「珍しいのう、おぬしがそげなことを言うとは思わなんだ。それならば、ことばに甘えるとするかのう」

 惟之はまだ健康上よろしくないということで、飲酒と喫煙の制限をうけている。九割がたは守っているが、一割は度を過ごすことがある。

 そこが心配ではあったが、和胤が居なくなってから、どこか快活さが消えているように、恩田の目にうつる。たまには芸妓を総上げにして、派手にあそぶのも悪くないだろう。


 夜になって新橋に顔を出した惟之の胸はまた、ちくりと疼いた。

 馴染みの料亭に、馴染みの芸妓を五人呼んでもらって、揃って迎えてくれる。座敷にもう、白藤のすがたはない。

 わかっていても一瞬、こぢんまりした座敷のなか、たおやかな雛妓を目で探してしまう。それに気づいた妓らが、色っぽい笑みとともに惟之を取り囲む。

 まるで母親がこどもの傍にいてやるようなもので、小さく爪弾く三味線の音色と、美味い酒と、少々の料理とで、芸妓と花を引きつつ小声でぽつりぽつりと話をしたり、聞いたりしているうち、惟之が普段けして漏らさぬ弱音なども、この妓らだけの胸のうちに秘められることを承知で、ことごとく吐き出してしまった。

 ここに居る妓たちは、みな惟之が落籍した者ばかりで、特別な間柄なのである。

 「―じゃけぇ、おぬしらとも当分逢えんのよ。正直に言って広島へゆけるのは郷里が近いけぇ嬉しいが、こうして懇ろに慰めてくれる妓と、離れるのだけは嫌じゃのう」

 と、隠しもせずに悲しい顔をして言う。中将になった経緯などもぽつぽつと聞かされていたから、惟之の気質を知る芸妓らはこぞって慰めにかかる。

 「ねえ、杉さま。定休日はおありでしょう?折を見てあたしたち、呉へ行っていいかしら」

 「ああ、ええよ。いつでも来んさい」

 約束よ、かならずお伺いしますからね、と言う。実際この妓らならば、呉まで訪ねてきてくれるにちがいなかった。

 何より惟之は父のような存在であるし、師団長ともなればいつ派兵にでるかわからない。惟之は軍人なのだから、別れが突然訪れるのも覚悟している。それ故のことばでもあった。

 「優しゅうしてくれるついでに、もうちっと近う寄って、甘えさせてくれんかのう」

 と、途端に無邪気な笑顔をみせて相好を崩した。部下や副官、取り巻きの居ない座敷など滅多にないから、こうして大っぴらに芸妓らと、親密極まりない時間を過ごせるのは貴重なのだ。

 馥郁とした女たちのやさしい香りと、どこまでも包みこむような柔らかな腕は海の如きで、惟之は久しぶりに心底から安堵の息をつけた気がした。
→【4話】 →目次へ戻る

web拍手 by FC2
スポンサーサイト

| 変わらぬ青空のしたで・71―80話 | 23:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

  変わらぬ青空のしたで・第漆拾弐話

 独逸の日本大使館へ着任してからというもの、和胤の忙しさは非常なもので、惟之のあの底のしれない気力がすこしでも自分に備わっていれば、と時折おもってしまうほどだった。

 留学で伯林を訪れたのはもう十年前だったから、何かと不安をおぼえもしたが、何より救いだったのは、あのころ共に机を並べて戦術を競いあった参謀候補生たちが、今や気鋭の参謀となって、伯林の本部へ勤務しているということだ。

 まるで昔、前線を共にした戦友と、ふたたびまみえたかのように彼らは和胤を迎えてくれた。日々の務めはふた月を数えるころには大分おちついて、祖国日本へおもいを至すことも徐々に増えてくる。

 どうやら、惟之は嫌々ながら結局、中将に昇進したらしい。それでいまは、海軍との連携をとるためもあって、広島の第五師団長として、その責務を果たしているという。

 そういった動静が、同期の友人から舞い込んでくる手紙の追伸にこまごまと書かれており、気遣いの深さが汲み取れる。

 副官は藤井中佐が務めているそうだが、うまくやっているのか、そこまではわからない。ただ和胤のあたまにあるのは、惟之の健康である。それが何より心配の種で、職務も落ち着いてきたいま、素直な気持ちをそのまま伝えようと、下手でもいいと思い切って机にむかった。

 便箋に万年筆をはしらせてみると、存外すらすらとことばを綴ってゆけることに、我ながら驚く。

 ―ふた月も便りを出さんでおったが、惟之さんは何をおもっちょられるかのう。

 日本から届く手紙の中に、惟之からのものがないことには、別に落胆はしていない。かれのことだから、和胤から先に手紙を寄越してこないかぎり、送ってくることはないだろう、と踏んでいる。

 兎にも角にも、独逸で腰を落ち着けて任務に励んでいる旨と、惟之の心身を労る旨とを五分五分の割合になんとか止めて便箋にしたためる。

 冗長にならぬように心がけたつもりが、書き終ってみれば便箋が十枚を超していた。きれいに畳んで封筒へおさめるも、妙にぶ厚くて、監軍部へ送る書状の倍はある。

 同時に同じ所へ届かなくてよかった、と妙な安堵をおぼえつつ、それを日本へ発送してもらう。


 ―話は変わるが、日露戦争後には、世界がどこか一変してしまったようで、独逸においてもそれは感じ取れた。瞠目、といったようなまなざしを、時折だが向けられることがあり、日本側としては何故なのかわからず、くびを傾げるしかない。

 和胤だけでない、独逸に駐留する武官はみな、あのときはただ祖国存続の危機に立ち向かい、何とか凌ぎきって守ることができた、という考えしかないからだ。

 世界において大帝国と称されてきた露西亜を、東の果てにある日本という、文明を開化させてから三十七年、言うなれば生まれて間もないちいさな国が、ぎりぎりの辛勝ではあったが、確かにその攻勢を押し返したのである。露西亜はどうみても日本が勝てる相手ではなかった。

 伯林の本部に勤める、和胤と旧交のある参謀たちは、日本陸軍の戦い方―特に騎兵―に興味をそそられたようで、何かと研究の対象にしているらしい。それについて聞かれることも少なくなかった。

 どことなくきな臭い、火薬の匂いが独逸にも漂いつつあるのでは、と軍人の戦に対する勘とでもいうべきものが、かれらと対峙しているときに、ちらちらと気配として読み取っていた。


 そうして日々を過ごすうち、伯林にもそれらしい秋の気配が漂いはじめ、褪せたような色の葉が落ちるのを見つめながら、武官の誰もが多かれ少なかれ、ため息をつく。

 色づいた葉は、重厚な街並みと石畳の彩りになるどころか、却って侘しさを増やすだけで、風に吹かれて街路を舞ってゆく。独逸帝都の秋はそんな風景だった。なんとも味気ない風景に、このときばかりは日本の鮮やかな紅葉が恋しかった。

 大使館に詰めている武官は、なにも和胤だけではない。留学に来ている中尉から数えて四人いる。

 直属の部下といえば大尉の坂本だが、真面目なうえになかなか快活で、素直さが取り得である。直感が鋭く、知識に裏打ちされているそれは周囲を唸らせ、侮れぬものがある。坂本が言わば、大使館付き武官たちの連携と雰囲気を良く保っている存在と言ってよかった。

 かなり肌寒くなってきたころに、ある日めずらしく坂本がかしこまった様子で和胤の部屋を訪ねてきた。何事かと訝しんでいると、お手紙であります、と言い、さっ、と机上へ巻物と書簡を置いて一礼をするなり、出て行ってしまった。

 書簡はひらくまでもなく、表書きの悠々とした筆跡からして、惟之からのものであるとわかった。筆でしたためられているそれには、何より惟之の健康を気遣う和胤の心をおもってか、恙無く過ごしていることが先ず書かれていた。

 それから、あの出発前夜のできごとを、要らぬ世話であったと突っぱねたあと、いじけているのを隠さず書き散らしてあり、最後の最後に、本当は一丈ぶん説教をしたためるつもりであったが、この程度で勘弁してやる、などと書かれており、和胤は思わず声に出して笑ってしまった。

 書簡をすべて広げてみれば、それでも四尺はありそうなほど長いものだったが、読むのはあっという間だった。一方の巻物を解いてみると、

“不舎晝夜”

 と、気取りのない筆運びで、空に浮かぶ雲さながらの悠然とした文字がそこにあった。署名と、落款まで捺してある。惟之自身が目の前に居るようで、和胤は今更ながらに切なくなった。

 日本を―惟之のもとから離れて、もう五ヶ月が過ぎている。いままでは忙しさに寂しさも薄められていたが、こうして惟之の片鱗に触れたとたん、どっと押し寄せてくる。

 ―惟之さん、この分だと独逸滞在は一年どころでは済みそうにありません。せめて正月のひと月でも日本へ帰れたら、どんなによいか…。

 そんな愚痴を含めて直ぐに返事をしたため、惟之との文通がはじまった。何も私的なことに限らず、独逸の戦術や兵器についてひろく見解を記したものも、別の書簡に仕立てて一緒に送ることも忘れなかった。

 日々の技術進歩は目覚しいもので、緑深い独逸の片田舎でそういった人を殺す兵器を、せっせと拵えているのだから、皮肉なものである。和胤も二、三度見学へ訪れたことがあったが、とてもそんな“火薬庫”にはおもえぬほど、素朴な町だったと記憶している。

 伯林は、程なくして厳しい冬がおとずれたわけだが、案の定、正月に帰国するなどという思惑は夢と消え、武官たちはそろって落胆の色を隠さなかった。

 その中にいて和胤はひとり、どこか満たされた穏やかな心境でいる。遠く離れてはいても、惟之の想いがこうして手許に届くし、幾度かやりとりをしていて気づいたが、互いに面と向かうよりも、素直に気持ちを伝えあえている節がある。この気持ちを抱いていれば、任期が伸びようとも、堪えられそうな気がしていた。

 和胤の私室には、惟之の中将礼装の立ちすがたを撮った写真と、洋装で一緒に撮った写真とが、並べて飾ってある。ふたつとも、送ってきてくれたものだ。礼装の写真は、真剣そのもの、というよりも不機嫌そうでもあり、悲しそうでもあり、きっといまも複雑な心境でいるだろうことは、推測できる。

 いま、半刻でも会えたなら、思い切り抱きしめてすこしでも慰めることができたらいいのに。と、就寝のまえなど、決まってため息をつきながら、写真をみつめる。やはり逢いたいという気持ちが膨らむのは、抑えきれないものである。
→【5話】 →目次へ戻る

web拍手 by FC2

| 変わらぬ青空のしたで・71―80話 | 14:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

  変わらぬ青空のしたで・第漆拾参話

 ―明治四十年、正月元旦

 郷里の山口にある杉家本邸には、親類姻戚が集まって、賑やかな祝いの席が設けられ、惟之は穏やかで水入らずの時を過ごしていた。

 「あの、惟之叔父さま。和兄さんは今日…ご挨拶に来てくださらないのですか?」

 と、甥の考一が遠慮がちに惟之の傍へ寄ってきて、耳もとへぽつりと零す。ことし十八歳になる考一は、できれば和胤に、今後の進路などの悩みなどを、打ち明けてみたいと言う。

 穏やかで隔てのない和胤の人柄に触れ、気兼ねなく一緒に過ごした思い出は、忘れられないらしかった。別れてひさしくなっても、考一のなかでは“カズニイサン”という呼びかけが消えていない。

 惟之は暫し甥の顔をみつめ、慰めるように肩をさすってやる。

 「そうかそうか、考一にとっては兄みとーなやつじゃったけぇのう。しかしなあ、あいつは今独逸へ行っちょるのよ。日本大使館駐在武官でな、今年もおそらく帰って来んじゃろう。ふたりで手紙を送ったらどうじゃ、おれが一緒に出してやるけぇ。千代もそうしんさい」

 叔父の提案に、孝一は目を輝かせて喜んだが、妹の千代はといえば歳相応の恥じらいをみせて、なかなか頷かなかった。

 千代にしても兄同様、和胤を慕っていることには変わりなかったが、なにぶん、そこは乙女の身である。もうそういった気持ちを、無邪気にくちに乗せられる年頃ではないとわかっていた。

 いわゆる、千代にとって和胤は、ほんのりと初恋のひと、という位置づけになっているらしかった。

 そんなふたりを微笑ましくみながら、両隣へすわらせていた。座には、義弟の恩田と、その家族もいる。恩田には五人のこどもがいて、やさしくて面倒見のよい千代を好いている。姻戚だけに血の繋がりはないが、滅多に会えぬ“千代お姉ちゃん”に甘えるのが嬉しいらしく、席をうつしてもすぐに纏わりついてくる。

 その子らをかわるがわる、抱っこをしたりしているすがたをみていると、千代もすっかり大人びてきたものだ、と惟之は内心で感慨深くもある。それもそのはず、ことしで十六歳になるのだ。

 正月の料理は郷土料理が多く饗され、箸をつけるたびにつくづく、和胤にも食べさせてやりたいとおもうものばかりであった。


 だがこうして、のんびりとしていられるのも数日しかなく、松の取れぬうちに郷里をはなれ、第五師団の本部へ舞い戻って、五日にはもう執務についていた。周囲はその精力に半ば感心するやら、呆れるやらでいたが、当人の惟之は例によって、どこ吹く風といった調子である。

 そこへ、正月も終わろうかという頃に、何の前ぶれもなく惟之のもとへ辞令が届いた。

 昨年、英国とのあいだに第二次日英同盟が締結された。海軍の代表とともに陸軍の代表として、英国へ友好をしめす表敬訪問へ行ってくるようにというものだった。

 「なァにを考えちょるんじゃ、帝都の連中は。馬鹿かァ、おれァ行かん。誰ぞ他のやつに任せりゃええんじゃ、英国通は他にいようが」

 なにしろ軍人になってからこのかた、一歩も日本から出たことがないのだ。そんなじぶんにお鉢が回ってくるとは、おもってもいなかった。寝耳に水、青天の霹靂じゃ、などと言っているうちに、周囲はさっさと準備をすすめてしまっていて、惟之が得意の雲隠れをする前に、洋行の日程は勝手に組まれていた。

 師団本部には同じく表敬訪問団に選ばれた、海軍中将の城内が、呉鎮から毎日のように通ってくるようになり、いよいよ逃げ場がなくなった惟之だが、だからといって副官の藤井に愚痴をこぼしたり、助けを求めたりということはしなかった。

 和胤以外には弱みをみせたくない、という気持ちもあったが、ただ意地を張っているのではなかった。陸軍省へ抗議の電話を一本掛けたきりで、あとはむっつりだまりこんでいる。

 その電話に出た尾木いわく、“三十年分の息抜き”をしてこい、というのがその本音らしかった。川上や吉田、恩田からも、あとのことなら心配するなと背をおされて、承諾してしまったのだ。いまさら後に退けない。

 惟之の柔軟な思考と、視野のひろさを見込んで、新しい国家戦略の智謀を持ち帰ってくれるのではないか、という期待が裏にあることも、薄々勘づいていた。

 当の惟之も、実は本心では嬉しくおもっている。鹿鳴館の夜会で出会う、各国大使らの話を聞くにつけ、いつかはかれらの祖国へ行ってみたいものだ、という気持ちが胸の片隅をあたためていたからだ。

 英国ゆきを指名された者たちは、各々あれこれと慌しく準備を済ませ、二月のはじめには、惟之も含めた表敬訪問団をのせて、戦艦朝日が呉の港を出航していった。

 「英国には、三月半ばに到着します。その後は仏蘭西、墺太利、独逸へ滞在の予定になっておりまして、閣下には一年ほど欧州視察へ赴いていただいた後、帰国ということになります」

 惟之にあてがわれた士官室へ、副官の藤井がやってきて淀みなく今後の予定を告げる。また知らないうちに予定が増えているが、ここは既に洋上である。それについて言うのも空しく終わるだけだ。

 「また爺ィの差し金か、藤井。今更じたばたしても始まらん。ここまできたら、何もわからぬまま岡場所に売られる生娘も同然なんじゃ。どこへでも連れてゆけばええちゃ。仔細はおぬしに任せる」

 寝台へ寝転がると、投げやりな口調で冗談混じりに言う。これにはさすがに藤井も吹き出して、肩を震わせている。笑い上戸らしく、なかなか止まらない。

 「これ、いつまで笑っちょるか。こげなことで外国へ連れてゆかれるとは、おもいもよらんのじゃ。おれの身にもなれ」

 「微力ながら自分もそばに居ります。それと、すこし落ち着いたら艦橋まで来てほしいと、艦長から先ほど言づてを承っております。では、これで失礼します」

 まだくちの端に笑みを溜めたまま、そう言って藤井は出て行った。

 確かに急なはなしではあったが、こうして欧州の遍歴に出られるということは、少なくとも最後の独逸への訪問で、和胤に会える可能性があるのだ。

 それをおもうと、自然と口許が綻ぶ。

 たとえ少しの間でも、和胤の傍に居られるのなら、それでいい。初めての欧州視察が、このような再会の喜びを含んでいることが、例えようもなく嬉しい。少年のように胸をときめかせているのを、押し殺すつもりはなかった。

 寝台から飛び起きて外套を纏い、士官室から出ると下甲板から一気にラッダーを軽快に駆け上がって、中甲板の長官室へ立ち寄って城内へ挨拶をしておく。

 狭い船室にいつまでも居るのは、惟之の性に合わない。途中立ち働く水兵たちの邪魔にならぬよう、敏捷な身ごなしで上甲板へ出てゆく。その後ろすがたを、乗組員たちは感心しつつ見送った。

 惟之は船など滅多に乗らないが、荒天に見舞われてどんなに乗船が揺れても酔うことがない。地に足をつけているのと変わらず、一向に平気である。

 他にも陸軍将官、佐官が幾人か同行していたが、皆船酔いで参っているらしく、甲板に出ている陸軍の軍人は惟之ひとりだった。

 「杉閣下、こちらですよ」

 「おっ」

 艦首のほうへあるいてゆくと、煙突の向こうに艦橋がみえた。栗鼠さながらの俊敏さでラッダーを登ってゆくと、いかにも潮風に鍛えられた海の男、といった風情の艦長が、日焼けした顔に笑い皺をきざんで、迎えてくれる。

 「杉閣下は船にお強いとお聞きしておりましたが、これほどとは。海軍に居られてもおかしくないですな」

 「ん、そうか?」

 艦橋の手すりにつかまって身を乗り出し、潮風に吹かれながら目を細めた。この艦はもう、瀬戸内を抜けかかっている。これほど大きな軍艦に乗り込むのは、初めてだった。波を蹴立てて大洋を疾駆し、遥か先の英国へ向かうのだ。

 「おれは陸軍じゃけぇ、海軍さんの苦労はひとつもわかっちょらんが、これだけは言ってもええかのう」

 「何でしょう、閣下」

 「うん…、軍艦はええのう」

 手すりを抱えるようなかっこうで振り向いて、よくうごく目を輝かせて言った。まるで無邪気なそのことばに、艦長は一瞬唖然としたが、すぐに茶目の効いたまなざしを向けた。

 「英国まで、船旅を存分に堪能してください」

 と、手にしている双眼鏡を惟之のくびへ提げながら、器用に片目を瞑ってみせた。
→【6話】 →目次へ戻る

web拍手 by FC2

| 変わらぬ青空のしたで・71―80話 | 02:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

  変わらぬ青空のしたで・第漆拾肆話

 朝日では特に荒天にも見舞われず、順調な航海を満喫している最中であったが、惟之は艦隊勤務の必要もない、ただの旅客のようなもので、要するに暇でしかたがない。

 何かと艦内を歩きまわりたがり、特に下士官や水兵から、軍艦家業特有のよもやまの話をきくのが楽しみで、昼食後の休憩や、就寝前は言うに及ばず、夜中などにも起き出して、不寝番をしている者のところへ、ひょっこり顔を出すようなこともやっていた。

 それが口伝いに士官たちの間にまで広がり、普段は言えぬような話―たとえば上官のちょっとした失敗談―を、すこしばかり色をつけて、惟之へ面白くきかせるような時間が、ほんの十日あまりで定着しつつあった。

 このまま放っておけば、司令長官の噂話まで流れかねない、威厳も崩れかねん、怪しからん。と、艦長の加藤大佐が日焼けした精悍な顔つきを、一層厳しくして惟之へ詰めより、

 「水兵たちが余興にと、話をお聞かせしたというのは聞き及んでおります。しかし、あのようなものは与太話。それを聞きに夜な夜な抜け出されるようでは困ります。陸の将官を軍艦のうえで、万が一の憂き目に遭わせたとあっては、私が切腹するだけでは済みますまい。ご自重ください」

 と、これもまた本心いつわりないことを言うと、惟之は艦長の肩を叩いて、にこにこしているだけで一向に効果がない。

 まったく惟之には憎めないところがあり、加藤はたちまち眉を八の字にしてまごついた。初日に艦橋へ案内してからというもの、すっかりこの小柄な将官をすきになってしまったからで。

 海軍のしきたりなど、詳しいことは何も知らなかったが、惟之は乗船した次の日に、いきなり艦長室へやってきて、

 「艦長、一緒にめしを食おう」

 と言って、その日以来ずっと料理を運ばせ、加藤と差し向かいで三度の食事をとっている。

 そもそも艦長という職は孤独なもので、下手に艦内をうろつけば、部下たちの邪魔になってしまうのが関の山で、食事どきも、佐官は他の下士官や上官などと席を共にするが、艦長はいつもひとりである。

 城内司令長官やその幕僚のいる席に招かれたとき、加藤艦長のすがたがないことにすぐに気づいて、翌朝訪ねていったのだ。

 そういう決まりですから、と言う加藤に惟之は、そんなはなしがあるか、ひとりでめしを食うなんぞ。陸に落ち着けん海へ出て、食事ちゅうのは心身を保つ一番の要素じゃろ。それをひとりちゅうのは、理に適っちょらん。と、憤慨したのだ。

 別にそれを、城内に抗議することもなかったし、他の誰かに零すこともしなかった。そこは惟之なりの加藤への気遣いのようなもので、英国へ着くまでずっとそれを徹した。

 そんな些細なことにもよく気がつく惟之は、朝日の乗組にとって好もしい人物として印象に残った。


 と、惟之がこのように戦艦朝日に乗船し、海を渡っていることは、これから訪問する先の、欧州各国にある大使館の大使にさえ、知らされていなかった。

 予定通り三月半ば、英国に到着した日本の表敬訪問団が、歓待をうけているころにようやく、それらしき噂話が舞い込んできたくらいで、再びの日英同盟締結を改めて喜ぶ話題として、現地に滞在している日本人のくちに乗せられた程度であった。

 そんな様子であるから、独逸大使館駐在武官である和胤は、惟之が欧州の遍歴に訪れることなど、まったく知らない。しかし、それが原因とは露しらず、ぱったりと届かなくなった、惟之からの手紙について頭の片隅で気にしつつ、日々の任務についている。

 日本では再び、桜が咲き初めるころになるか、和胤は本朝からの電文による通達で、明治四十年四月一日付けを以って中佐へ昇進していた。


 ―ところで。

 日本の陸軍はその創生のころ、独逸式の戦術を学びいれた経験がある。当初は仏蘭西式のどちらを採用するかで紛糾したこともあったが、陸軍大学校の設立とともに、作戦の大家である某少佐を独逸から招いて、その教授をうけたのだ。

 以来、その縁もあってか陸軍は何かと独逸贔屓に傾くことが多く、外交においてもそこはかとなく、それが慣習のようになっている。

 そういう背景もあって、惟之は表敬訪問団の一員として、ひと月を英国で過ごしたが、急かされるようなかたちで欧州へ旅立たされた。

次のふた月半を仏蘭西、その次のふた月を墺太利へと、やや駆け足での視察を終え、明治四十年九月、独逸の伯林へ到着した。

 中将の訪問となるだけあって、独逸側からそれなりの出迎えを受け、そのまま車に乗って官邸や軍部へ案内される。大使館から付き添い兼、通訳の武官として来たのは、和胤ではなく部下の坂本大尉ひとりだけだった。

 ―まあ、何か事情があるのだろう。

 今や中佐で、駐在武官の責任者のような立場にいるだけに、来たくとも来られないのかもしれなかった。

 軍部からの帰り、車のなかでそれとなく坂本へ訊ねると、なんと、十日前から大使より受けた所用で民顕へ行っており、ひと月は帰って来ないという。民顕といえば、視察先の墺太利から鉄道を乗り継いで、つい数日前に、目と鼻の先を通ってきたばかりである。

 しかも、和胤には惟之が英国への表敬訪問団のひとりであることはおろか、伯林へ来ることも知らされていないというのだ。

 他の武官からして、惟之の訪問を知ったのは一週間前で、大使秘書官が電文を持ってきたときは、目を疑ったほどでした、と坂本は素直に白状する。

 その、あまりといえば、あまりの巡り合わせの悪さに、惟之は落胆の色を隠さないでいると、気の毒におもったか、坂本が夜になって滞在先の大使官邸へ、海軍の駐在武官と共に訪ねてきた。

 麦酒の美味いものがあります、などと言って一式持ちこむと、たちまち持ち前のあかるさを発揮して、惟之の憂さ晴らしにつとめてくれもした。惟之も生まれて初めて乗った軍艦、朝日でのできごとを、諧謔を織り交ぜて話してきかせ、その晩は大いに盛り上がった。

 翌日になって坂本はさっそく、民顕にいる和胤へ電文を打とうとしたが、惟之がそれをやめさせた。もう、いつもの悪戯好きが顔を出している。

 こうまで再会に手間取らされるのなら、いっそ死ぬほど驚かせてやろうとおもったのだ。坂本から和胤のこれからの日程の仔細を聞き知っているから、いくらでも立ち回ることができる。
→【7話】 →目次へ戻る

web拍手 by FC2

| 変わらぬ青空のしたで・71―80話 | 02:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

  変わらぬ青空のしたで・第漆拾伍話

 こうして、最後の訪問先である独逸へ来たものの、伯林に、しかも毎日のんびりと大使館へ、腰を据えていられるかといえばそうではない。

 国王への謁見をはじめ、各将官、諸侯に招かれて舞踏会だの園遊会だのと、“からだの掃除よりも身嗜みに気を遣う”ような日々が続いて、いい加減に飽き飽きしていると、ある晩、坂本がひとりで官邸へ、惟之が滞在している部屋へやってくる。

 「山口中佐から電話がありまして、明日の夜戻るそうです。どうも、話した感じからして、中佐はあちらでも閣下の訪問について何も聞いていないようですが、本当によいのですか」

 「ああ、おぬしらに迷惑はかけん。安心せい」

 嬉々としている惟之を見て、坂本はその悪戯好きにすこし呆れつつも、さて明日は何が起きるのだろうかと、密かな期待を抱いてもいた。

 翌朝、ずいぶんと早く目が覚めた惟之は、平服のうえに薄手のフロックコートを羽織って、咥え煙草をしつつ、伯林の街路へ出かけていった。馴染みになったカフェテリヤがちかくにあり、早朝から営業している。

 あいかわらず、独逸語はさっぱり理解できていないが、日本語でいうところの、“はい”と“いいえ”にあたる“ヤー”と“ノイン”のふたつだけは覚えている。

 一般的なやりとりであれば、あとは身振りや表情で何を伝えたがっているのか、大体掴めるものだ。カフェテリヤくらいであれば、不自由しない。店にはいってひとつ笑顔を向け合えば、もうそれだけで挨拶のかわりになる。

 街路に人影が増えて、車などが行き交うようになる時間まで、朝食をとりながら気ままに過ごしたあと、伯林の駅近くに散策へでた。雑踏を進んでゆく足取りは軽く、どこまでも歩いてゆけそうな気がした。

 下町のあたりまで来ると、込み入った裏路地も多くなる。時々振り返り、来た道を確認しつつ迷わぬように進んでいき、駅へたどりついた。大時計を見上げると、正午を過ぎている。

 和胤はまだ民顕から戻ってこないが、もうすぐ逢えるかとおもうと、急いた心に押されて、自然と足がむいてしまったのだ。伯林に滞在してひと月近くなるし、もうこの辺りまでなら、独りで出歩けるほどになっていた。

 「まったく、おれァ何をしようるんじゃろうの…」

 山高帽を深く被りなおして呟く。通路の脇へ寄って細巻を咥えると、燐寸で火をつける。何とはなしに人の流れを眺めながら、紫煙を燻らせていると、後ろから肩に手を置かれて、何やら独逸語で呼びかけられた。

 語調が穏やかであったため、怪しみもせずに振り向くと、そこには身形の良い見知らぬ男が立っていた。惟之よりあたまひとつ半ばかり背のたかい、少々恰幅のよい壮年の男は、今しがた到着した汽車から降りてきたようで、使いこまれた革の鞄を手に提げている。

 親しげに笑みながら、その箱のような鞄を惟之の眼前に差し出してくる。持ってくれとでも言うのだろうか、受け取って様子をみていると、男は懐やらポケットやらを探りはじめ、どうやら切符を探しているということを察した。

 それが、なかなか出てこない。惟之はその男が気の毒だとはおもったが、手助けしたくとも、どうしようもない。じっと見守っている間に、灰が落ちそうになった細巻を指さきで慌てて取り上げ、預かった鞄へ落ちぬよう揉み消した。

 “この中は探したのか”という風に、惟之は相手に向かって鞄を示した。慌てているときほど、調べ忘れていることが往々にしてあるものだ。

 入れた覚えはない、と言いたげな顔つきでいたが、探してみろ、という惟之の仕草にくびを傾げながら、鞄を開く。男が探しやすいように、捧げ持つようなかっこうで持ってあげさえする。

 ほどなくして、“ダンケ”を連呼しながら見つけ出した切符を惟之に見せつつ、笑いかける。しかし、何故か鞄を受け取ろうとせず、惟之にもたせたままでいる。

 男は肩へ腕をまわすなり、まるで友人と歩くようにどこかへ連れてゆこうとする。惟之は慌てて踏みとどまって、首を振りつつ“ノイン”とはっきり告げた。

 怪訝そうに見られるのも構わず、鞄を両手に持って丁重に差し出すと、今度は男が何やら怒りだしてしまった。

 ―この男は、いったいどうしたちゅうんじゃ。ことばが通じんちゅうのは、不便じゃのう。

 鞄を受け取りもしないで、男は睨みつけている。左手に携えているステッキを、苛立たしげにひねくり回していて、物騒な雰囲気であることぐらいは、惟之にも感じ取れた。

 何やら罵るようなことを言っているらしく、通りがかる人々が不愉快そうな顔をして、ふたりを避けていく。

 惟之は仕方なく、馬鹿のひとつ覚えよろしく“ノイン”を連発して、あとは目で訴えてなんとか宥めようと努める。ひとまず持ったままの鞄を、男の足元へ置こうとからだをかがめると、右肩をステッキで撃たれた。

 惟之を鞄持ちか、家に仕える下男あたりと勘違いしているのではないかと推測したが、それを覆す説明をする語彙を、惟之は持ち合わせていないのだ。

 知らぬとはいえ、仮にも大日本帝國陸軍の中将をつかまえて、ステッキでぶん殴るとはとんでもない話だが、どうにも手段の取りようがない。

 身を起こそうとしたところに、今度は首を撃たれ、石畳へ膝をつきかけたとき、見かねた誰かが惟之の前に立ち塞がるようにして、男の暴挙を遮った。手を貸されて体を起こしてみると、日本海軍の若い士官である。

 「ああ、助かった。きみ、すまんが言葉が通じんので何とか釈明してくれんか。かれはおれを家の下男か何かと、勘違いしておるようなのだ」

 心底ほっとしながら言うと、その士官は惟之を痛々しそうに見たあと、自分は英語と仏蘭西語しかできませんので、それは難しいかもしれません、と言う。

「一緒に伯林で降りた陸軍士官が、独逸語が堪能でして。気づいて来てくれればよいのですが。少なくとも私は、そのあいだに無防備なあなたを、守ることくらいはできます。体は痛みますか」

 何とも頼もしいことばだが、惟之も軍人だし、その気になれば男を投げ飛ばすくらいの芸当はできる。かれも平服の洋装でいる惟之が、だれか気づいていない。

 十中八九、罵声であろう。男は旅で疲れているのも相まって、足止めを食っていることに腹を立てて二人に向かって喚いている。

 「おい、どうかしたのか」

 不意に、後ろから声がかかって惟之はぎくりとする。目深に被っていた帽子の庇に、顔を隠して俯いた。忘れるはずもないし間違えもしない。眼を瞑っていてもわかる、声の主は和胤だった。

 「あっ中佐、助かりました。いや、実はですね―」

 こんな形で再会しようとは。恥ずかしくて顔から火が出そうだった。海軍士官が事情を説明しているあいだに、こっそり逃げ出したかったが、助けてもらった手前それは出来かねた。

 言語が違ってもわかる、和胤は半ば説教をするような語調で長々と諭していて、男はやっとじぶんの勘違いだと解かったらしい。初めに会ったときの穏やかな人物に戻ると、しきりに謝っているのが見てとれた。

 名刺を男から受け取ると最後に一言だけ、厳しい語調になった。叱ったのだろう。それらを、惟之はそっと帽子の庇から窺っていた。

 「まったく、きみが言った通りこのひとは、かれを家人と勘違いをしていたそうだ。よほど似ていたのだろうが…しかし、酷いはなしだ。大使館から厳重に抗議しようとおもうが…、そちらの方が?」

 海軍士官の後ろに庇われていた惟之は、俯いたまま一歩石畳へ踏み出したが、顔をあげられない。

 「ステッキで撃たれておられたので、もしや怪我をなさっているかもしれません。私がもう少し早く止められればよかったのですが」

 「あァ、面倒じゃけぇ、いちいち大使に上申せんでええ。助けてもらったことは感謝しちょるが、くれぐれもこのことはおぬしらだけの胸にしまって、誰にも言わんでくれ」

 恥ずかしさが極まり、惟之は郷里ことばを丸出しにしていることを意識していなかった。かれらの顔も見ずに口早に言い置いて、くるりと踵を返す。

 「え…?」

 それで海軍士官のほうはただ、惟之をぶっきら棒なひとだとおもったに違いないが、和胤はその挙動に我が目と耳を疑った。華奢な形のよい小柄な背中、独特の郷里ことばを乗せた声は、耳に絶えて久しい。

 逢えるのなら、ひと目でも逢いたいと願っているひとのもので、そのひととしかおもえなかった。かれが、伯林にいるはずなどないのに。

 「す…杉閣下?」

 和胤は半ば呆然として名を呟き、背を見つめていると、その人物は目深に被っていた山高帽を、パッと取り去って振り返った。

 「こらァ山口!なにを間抜け面して、ぼやァっとしちょるか。大使館へ帰るんじゃろ、民顕からの報告を大使が首をながくして待ちようるぞ。…まったく、もっとまともな手段で再会する筈じゃったのに台無しじゃ。死ぬほど驚かせてやろうと思うたのにのう」

 いつもの檄が、伯林の駅に響き渡る。夢でもなんでもない、いま目の前に惟之が立っているのだ。
→【8話】 →目次へ戻る

web拍手 by FC2

| 変わらぬ青空のしたで・71―80話 | 01:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。